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【プロフィール】 |
大学時代より父親(童話作家)の影響もあり、独学で作詞の勉強を始める。在学中よりすぎやまこういち氏に見出され、「ザ・ヒットパレード」「おとなの漫画」などのテレビ番組で、才能を発揮。以来多くの歌手の作詞を担当、現在も活躍中。ご子息も音楽プロデューサーとして近年注目され、特にMISIAの発掘は周知の事実。
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♪橋本 淳 氏インタビュー♪
(作詞家)
橋本淳 氏と言えば、「青い瞳」や「ブルー・シャトウ」などブルー・コメッツの一連のヒット曲を世に出した作詞家の第一人者です。中でも井上氏とのゴールデンコンビによる曲の数々は橋本氏が手がけたブルコメのシングル盤27曲中、11曲にものぼります(別表参照)。「氏なくしては、ブルコメの歴史は語れない」と言ってもよいでしょう。 今だから明かす「青い瞳」誕生秘話や、当時だから出来た信じられない仕事振りなど、約2時間にわたりお話いただきました。
*尚、今回は長時間にわたっての取材でしたので、2回に分けて掲載させて頂きます。
(BCFC事務局)
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インタビュー<前編>
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♪まずはブルー・コメッツとの出会いからお話頂きたいのですが……。
★ 先日も、河出書房から出すGSの特集で、ブルコメのことを書いたので、重複するかも知れませんがお話しましょう。
そもそもGSのスタートの全てがすぎやまこういちさんなんですよ。テレビの「ヒットパレード」という番組がありまして、当時はカバー曲の時代でしたが、外国から来るタレントがみんな遊び半分でいい加減なわけ。東大出のゴリゴリの真面目なすぎやま先生は、きちんと自分のプランニング通りに番組が進まないとイヤなタイプでして、あまりの外タレの横暴さに「出口はこちら!!」と言って帰しちゃうこともありました。
その当時は、ビートルズが「ミッシェル」を出した頃で、クラシックが好きなすぎやま先生は、その曲にいたく感動されて「こういうものを日本でも作ろうよ」と言い出されました。「ヒットパレード」という番組は、渡辺プロとフジTVでやっていたんですが、渡辺プロとしては自分のところのカバー歌手を出して行きたいので、あまり賛成でなかったのですが、先生が説得されて「オリジナルの日本のポップスを番組で取り上げよう」と言う動きがスタッフの中でも起こったのです。先生は本当はご自分の曲をやりたかったのですが、フジTVの社員だし、渡辺プロにも面子が立たない。そこで、ブルコメと僕に、その仕事を依頼して来られたのです。
♪では、すぎやま先生との出会いは、いつ頃だったのでしょうか?
★ 僕は学校を卒業予定で、いくつか就職が決まっていたんですが、サラリーマンになりたくなくて、「どうしようかなぁ」と思っている時に、同級生が「自分の兄貴の友人にすぎやまこういちと青島幸男というのがいるから1回会って見たら?」と連れて行ってくれたんです。
僕はずっとクラシックばかり聞いていたので、日本の歌謡曲を全然知らなかったのですが、先生のストラビンスキーの「春の祭典」風の曲を聞かせて貰って、すごく興味深いものがありました。帰り際に先生から譜面を渡されて「明日までに歌詞をつけて来てよ」と言われました。当時、何も知らない僕は「歌詞って何ですか?」というところから知り合った訳ですよ。親が童話作家だったことを先生は知っていて「何とか文字が書ける」と思われたんでしょうね。
でも、ピアノもそんなに弾けない上に、渡されたのはコードとメロ譜だけ。何もわからないから、その友人に教わって、とりあえずインチキなのを作って、翌日届けたら「採用!!」とか言われちゃってね(笑)。
まだ大学4年秋頃だったのに「明日から僕の運転手になれ!!」と言われて、そのままズルズル先生のところに行くようになって「ヒットパレード」や「おとなの漫画」のお手伝いをするようになったのです。毎朝、先生の御宅に迎えに行き、フジTVに行って番組が終わるまでいて、その後のお遊びにも付き合い、午前4時頃、お宅にお送りして自宅に戻り、また翌朝9時に迎えに行かなくてはならない。今考えると、すごい青春でしたよ(笑)。
半年くらい経って、ブルコメをスタジオに残して、「2人で何か歌を作ってよ」と井上忠夫と僕に言われました。番組では、まず台本を決めて、次にタレントを決めて、それからアレンジャーに注文していました。ピーナッツなどはフルバンドの譜面で、森岡賢一郎や宮川泰さんなど超売れっ子作曲家に依頼すると、曲が決まって1週間前になっても譜面が出来て来なかったこともありました。でもブルコメだけは「これとこれ」と言うと自分達で作ってきてくれるからスタッフ内でも評判がよく、安心でしたよ。
「青い瞳」は僕の歌詞が先で、大ちゃんが曲を作ったと思うんだけれど、そんな訳で、それまでの信頼関係がある程度、出来ていたのでとてもスムーズな出会いだったと思います。
♪当時のメンバー達はどんな感じでしたか?
★コロムビアに決まるまで、ほとんど「ヒットパレード」のスタジオで本番の日に会うくらいでしたが、生まれて初めてブルコメの生の音を聞いて、その音量にびっくりしたのを覚えています。その当時はジャッキーは、いつも1人で黙々と練習していました。ランスルーがあってカメリハ、本番なのですが、30分の内、いつもブルコメはメドレーで3〜4曲やるんです。すぎやま先生はものすごくうるさくてねぇ。先生が譜面を元に出されるQ(キュー)のきっかけに、彼らが乗れなかったりすると、怒り狂って叱責があるんですよ。大ちゃんと三原と小田さんはへっちゃらなんだけど、健ちゃんとジャッキーはいつも練習していましたねぇ。
♪「青い瞳」は当時としては、ものすごく新鮮な響きでしたね。
★そう。しかも、オリジナル曲を出す前に、ずっと彼らはカバー曲をやっていたでしょう。だから、みんな巧いのね。これは大橋プロの伝統でもあったのですが……。
♪そうですね。かなりしごかれて米軍のキャンプまわりなどして、実力をつけていましたからね。
★スパイダースなんかは、自分達のキャラクターと1人1人の才能でやってきた。ブルコメはそれがないから「演奏」だけ!! 尾藤イサオがアニマルズの「だーれのせいでもありゃしない」で当たって、そのバックバンドをやったりして、ホントに上手になって行ったんですよね。
大ちゃんと「青い瞳」を作って1〜2週間位して、フジTVのスタジオで聞かせてもらったんです。それまでにもすぎやま先生の曲に歌詞をつけて、歌手が歌ってくれるのを聞いたりしていたのですが、いつもピアノでしょう。ブルコメが自分達でバーン!!と大音量で聞かせてくれた時は本当に感激しましたよ。この時ですよ。僕も「歌で生きて行ってもいいかな」と思ったのは……。
♪橋本先生は、元々、作詞家志望ではなかったそうですが、でもどこかにその才能が隠されていたのでしょうか?
★僕は本来は作家でそれまでにも中学くらいから本を出していました。 さきほども言いましたが、親がその世界にいましたから、小説家になるべく、一流の作家のところに預けられて、作家の生活に10代の頃から馴染んでいたわけです。新潮社や朝日新聞の方達からも小説家になるように仕向けられていたけれど、大学の終わりに挫折したのです。作家のエゴに傷ついてしまった。でも、文字を書くことには慣れていましたね。ただ歌謡曲というものを知らなかったのです。
♪短い中に人間の感情を凝縮させる作詞は、小説とはまた違った感覚だったと思いますが……。
★そうですね。音楽と言葉をミックスさせるのは面白いと思うようになった。これは一にも二にもブルコメのおかげですよ。作詞の基本や、その奥の深さを、実際の仕事を通して教えてもらったと思っています。
♪その素晴らしかった「青い瞳」は、それからすぐにレコーディングされたのですか?
★いえいえ、全く世に出なくてね。世に出ない理由は簡単で、レコード会社が専属制度の時代だったからです。レコードを出す時は、専属の作家以外は出せない。東芝の草野さんというディレクターが中村八大と永六輔を使って九ちゃんの曲など「和製ポップス」を出していましたが、これは当時としては、新しかったのです。それ以外は全部、専属制で、作家が弟子を育てて、その弟子がまたデビューして行くという形でした。その中を川村君(元ブルコメ・マネージャー、第1回インタビューに登場)が頑張って、ビクターに行ったり、東芝に行ったり色々するんですが、既成の歌手の「バックバンドだったらいい」と言う返事なんですよ。中尾ミエや尾藤イサオ、フランツ・フリーデルのバックバンドならいいとね。
「青い瞳」のテープを持って回っても、全然ダメなの。そんな時に、コロムビアでは金子さんや泉さん(元ブルコメ・レコーディング・ディレクター、第2回インタビューに登場)が、「日本人の日本人による音楽」を作ろうとしていました。泉さんは元々CBSの洋楽担当のディレクターで、エミー・ジャクソンの大ヒットを生み出しました。その頃、JポップスをJ盤と言っていましてね。川村君が泉さんのところに通うんですよ。で、サンプルレコーディングもして貰ったんですが、泉さんはその時は出す気がなかった。
2月にレコーディングして、お蔵になっちゃって、「ダメだろうなぁ」と半ば諦めていました。その年に、筒美京平がドイツのガス・バッカスの「恋はスバヤク」やジョニー・ティロットソンの「バラが咲いた」「涙くんさよなら」などをポリドールでやっていて、泉さんと筒美は洋楽部員として面識があったんですね。僕と筒美は高校から一緒だから、「何とか泉さんとやりたいね」と話していた。そして、泉さんにもそれが伝わって「どうしようかな」と思っていたんでしょう。
暮れにその泉さんが、自宅で貯まったテープの整理をしてしたら、妹さんが「すごくその曲いい!!」と言ったのが「青い瞳」だったんです。「そんなにいいの?」と言うことになって、もう一度見なおされて、僕も呼ばれたんですよ。大橋プロと川村君もそこで再び、頑張ったんでしょう。
川村には「GSの立役者はおまえだよ」といつも言っています。彼の負けん気と営業の力がなかったら、コロムビアまで辿り着けなかったでしょうね。
ホントに頑張りましたよ。
そして、やっと1年後に発売が決まったのです。泉さんの妹が「ブルコメの真の発見者」ですよ。この偶然がなかったら、GSの夜明けも違う形になったでしょうねぇ。
♪いよいよのレコーディングからヒットするまでの経過は、どうでしたか?
★発売が決まった時点で、すぎやま先生が、番組で「今週の○○位!!」と言ってリクエストがまだ来ないうちから、毎週バンバン演奏させたんですよ。強引に…。
そうしたら本当にリクエストが来るようになって、最初、ハガキが5枚来た時には感激しましたね。みんなで涙流して……。それから5枚、10枚というのがある日突然、何百枚になったんです。「これは売れるよ〜」とみんなで言い出しましたよ。
「青い瞳」が売れそうだなと思った時に、すぎやま先生の妹で、CMの会社にいた彼女が「サビのハーモニーがすごく新鮮なのよ」と言うので、家に帰ってピアノで弾いてみて「なるほど」と思ったこともありました。
2001.11.20 ホテルオークラにて取材 (BCFC事務局M・M記)
♪インタビュー<後編>へ!!♪
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※インタビューに登場する人名や当時の背景など、BCFC会員でもある志賀 邦洋 氏に補足説明をしていただきました。太字の人名等をクリックすると説明をご覧いただけます。本文とあわせてお読みください。
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